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  カパッチョ  
 

 現在のカパッチョはズワビア王朝、フリードリッヒ二世に敗戦し、後衰退した"カパッチョ・ヴェッキア"の住人が移住し造られた街です。この衰退の様子はこう語られています。:教皇インノセンティウス四世はこの偉大な勢力拡大に恐れをなし、慎重な政治とコムーネによる報復はフリードリッヒ二世の破門後、有力貴族たちをそそのかし陰謀をたくらみました。信仰と宗教による絆は解かれ、カパッチョを取り巻く領主たちはスワビア家に対し反逆を実行し、街を粘り強く封鎖し続けました(一二五六年)。

不屈の精神ともいえるような粘り強い封鎖事件の後始末は実行犯である謀反人たちを残酷に処刑し、死を持って償わせました。一二五〇年、フリードリッヒ二世が死を迎えると一二六六年の起こったベネヴェントの戦いで皇帝の息子であるマンフレディが戦死し、スワビア王朝は滅ぼされてしまいます。カパッチョはフランス王家であるアンジュー家とスペイン王家であるアラゴン家により少しづつ活気を取り戻します。新中心街は以前農村のあったサン・ピエトロという地区(現モンティチェッロ)に造られていきました。カパッチョは世紀ごとに王国、公爵領とその領主が代わっていきました。

カパッチョは海抜三百八メートルから四百十メートルに位置する高台に置かれた街です。谷はソプラノ山とソッタント山により形成され、セーレ平野とサレルノ湾を見渡す美しい風景が楽しめる土地です。その輝かしい過去は公爵領であり、司教区が置かれていました。司教区としては(九三二年の文献より)大きな教区を受け持っていました。
街の歴史はローマ時代まで遡り、街の中心を通るサンタゴスティーノ通りにはこの時代に築かれた城壁の跡が見つかっています。一〇五一年、カーヴァ・デ・ティレーニの条約書によるとカパッチョ・ヴェッキアの東にサン・ピエトロの集落があり、ここでは公爵たちの住居として"カステル・ウェトゥス(カステルッチョ、現在名はトッレ・エリセオ)"がありました。サン・ピエトロの村には一二四六年の反逆事件後、カパッチョは崩壊し、その住人はこの村に実を隠していました。街と城はアンジュー家により作り直されますが、新しい集落が大きくなるにつれ、次第に過疎化していきました。

アンジュー家の支配後、ルッジェーロ・サンセヴェリーノはジョヴァンナ王女より支援を受ける一三六二年まで一二九六年よりライモンド・デ・バウチに支配されていました。一四〇五年、この領地がサンセヴェリーノ公のものになるとカパッチョの領主たちはターラント王率いる反逆に加わり、ラティスラオ王に対抗します。続けてバフィヒーロ・デル・ジュディチェとその相続人たちが陰謀に加わりました。一四四二年、アラゴン家のアルフォンソによるナポリ占領は公爵領としてアメリーゴ・サンセヴェリーノ公がラウリーノ、サッコ、トレンティナーラ、モンテ・フォルテ、パドゥーラ、マリアーノ、スティオ、コルガの土地を与えられました。一六世紀、ルネサンスはカパッチョにも到着し、科学と芸術の人間復興が花開きました。当時領主であったベルナルド・ヴィラマリアーノ公の息子フェッランテが一歳のとき、タイトルの相続が行われました。

ベルナルドの死はその妻であるイザベラにもダメージを与えますが、フェッランテは既に成長し、婚姻も交わした立派な領主へと成長していました。彼の妻であるイザベラ公爵夫人は美しさと慈悲深さ、そして教養を持ち合わせたこの時代で最も祝福された女性の一人でした。一五五二年、フェッランテ公は上のものと問題を起こし、領土を手放すことになります。イザベラはスペインへ逃亡し、その数年後、故郷に帰る旅の途中で不幸にもして亡くなりました。

こうしてこの領土はマリア・カドルナに受け渡され、ロッカダスピデのイポリタ・フィロマリーノ、グリマルディ、そしてドーリアへと受け継がれて、封建制度の廃止まで続きました。ちょうどこの時期、司祭館を含めた集落は荒れ果て、逆に新しいカパッチョには二百家族が住み、2つの修道院にゲストとして迎えられていました。そのうちの1つはカルミネ修道会のものでもう一つはアゴスティーノ修道会によるものでコンスタンティノーブルの聖母教会がありました。カパッチョはマジーニによる一五九六年の地図にも記され一六二〇年ボローニャにその所在が公開されました。17世紀にはいると反ブルボン家運動とペストの流行といった2つの大きな事件が起こります。

教皇インノセンティウス十世により修道士の数が少ない修道院の廃止令が発令されると一六五二年にはカパッチョにある二つの修道院がつぶされました。この修道院にあった宝物庫は教区に受け渡されました。十八世紀にはいると街は素晴らしい建物やきらびやかに飾られた門により彩られます。森の開拓が始まり、切り開いた森は個人所有が約束されていました。十九世紀末、国際的事件が起こります。カパッチョ市民には特に衝撃を与えませんでしたがチレント地方の共和制は土台がしっかりしていなかった為、いくつかの難しい場面に出くわすこともあり、解決には時間がかかりました。一八〇六年封建制の廃止:封建制崩壊後も農民は無生産の土地をブルジョア階級の保証人に預けることになり、実質的には以前とあまり変わらない生活が続きます。ブルボン家の再来にも関わらず、貧困層の生活改善は解決されませんでした。十九世紀に入るとチレント地方は自由な思想を通じて秘密結社が結成され、一八二〇年から一八二八年にかけていくつかの運動を起こしました。一八四八年の暴動では王に主導権を受け渡すよう意見を述べ、その後ナポリ王国全域で恐ろしい鎮圧が行われました。
カパッチョ市民による数百人もの後援者はサレルノで拘留され、その周辺人物も含め厳しく見張られていました。

イタリア統一後、生活の改善を説得され土地を預けた農民や山賊は期待を裏切られ為、不満が積もりいくつかの運動を起こします。新しい法律は南イタリアにとって厳しく、反逆するものは広場で公開処刑に処せられました。

二十世紀のカパッチョは54人ほどの住民が住んでいましたがそのほとんどが農民や手工業を営むものがほとんどで朝早くから夜遅くまで働いていました。

一九二六年フェルディナンド・ボレッリ男爵によりセーレ川左岸に開墾協会が結成され、土地の開発と運河の整備が始まりました。水を引くための水路の他にも広場、学校、道路、平野の人々の生活を支える水道が作られました。第二次世界大戦が終わると共和国宣言が発令され、農民は組合を作って領主の未耕地を耕し始めます。

国と農民の間で土地の所有権をめぐり様々な問題が起こり、暴動やデモ行進が行われました。この運動に加わった多くの人が逮捕されますが最終的に設備のそろった三百十七の農場の書く付くに成功します。

戦後のカパッチョは世帯数が増え、一つの小さな空間に多くの人が住んでいました。テレビの到来と車の普及は簡素な生活で満足していた市民の欲求を刺激し、所得を増やす為、ドイツやフランス、または北イタリアへ移住するものが増えました。またプロフェッショナルな職に就く者は子供たちにより良い教育を求めて都会へ流入するようになりました。

現在のカパッチョは妬く千九百人の住人を抱え、その周辺自治体を加えると二万人を超えます。夏の間だけ故郷に里帰りするものや観光客により街は賑やかな表情を見せます。手工業品を売る店はほとんど見られなくなり、旧市街は過疎化が進んでいます。

 

 
 
 
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